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島崎七生人しまざきなおと

クルマのカタログ(紙)がなくなる!?(島崎七生人レポート)

クルマのカタログ(紙)がなくなる!?(島崎七生人レポート)
クルマのカタログ(紙)がなくなる!?(島崎七生人レポート)

自動車メーカーのカタログのデジタル化が進んでいます。先日もトヨタが2023年3月を目処に紙のカタログを廃止するという報道があり、その流れはさらに加速しそうです。業界屈指のカタログ収集家でもある島崎七生人さんはどう受け止めているのか、さっそく聞いてみました。

トヨタの販売会社にはデジタルカタログ移行への通達が出ている

読者の皆さんがどう受け止めていらっしゃるかわからないが、少なくとも僕にとっては由々しき事態、問題なのである。何の話か?それは“自動車メーカー各社が紙のカタログをなくす方向でことを進めているらしい”というのだ。つい最近もトヨタにその動きがあるとの話があり、関係者に確認したところ、「すでに販売会社へは、“近くすべてデジタルカタログに移行する”との通達が出ている」らしい。もし本当なら、業界を代表するトヨタの動向だけに、他メーカーも追従するのは必至だろう。

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紙のカタログ廃止で先行する輸入車メーカー

紙のカタログ廃止自体、実は数年前から輸入車メーカーでは始まっていた。仕事で必要が生じて請求すると「ウェブカタログがダウンロードできるURLをメールで送りますね!」と迷わず明るく答えが返ってくるケースも増えた。海外のモーターショーなどでも、もうかなり前から紙やUSBメモリーでの資料の配付が減り、URLが記されたカードを1枚手渡されるだけになったりしていた。

つい先日も、仕事上で必要になり自分の乗っているクルマを買ったディーラーへ「最新のカタログをいただけませんか?」と立ち寄ったところ、コチラの言葉が終わるか終わらないかのうちに語尾に被せて「ああ、紙のカタログはもう作ってないんですよ。皆さんにはタブレットでお見せしていまして」と言われ、久々に客に両手の掌を見せて満席だからと断る無礼なレストランを訪ねた気分を味わったばかり。件のカタログは仕方なく後日、別の手段で現物を入手した。

デジタルカタログの良さ、紙のカタログの良さ

デジタルカタログの良さ、紙のカタログの良さ

もちろんデジタルカタログにはメリットとして、いつでも見ることができたり、そのクルマの走行シーンの動画や、画面上でボディカラーや仕様を自分好みにチェンジして見られたりする。昔のように、クルマの写真のホイール部分を丸く切り取り選びたいホイールの写真をそこにあてがって確認したりする必要もない。

ただし“紙の物理カタログ”として手元に残しておきたい場合、自宅のプリンターを使いプリントアウトすればいいが、インクカートリッジが何個あっても足りず現実的ではない。僕らの場合、クルマの原稿を書く時の資料に手元にカタログはなくてはならないもので、原稿を書いているMacの横でiPadで表示しながら見る方法はあるにはあるが、フリックしてページを送ったり、見えない部分があれば画面を拡大しなければならなかったり……と、案外とまどろっこしい。紙のカタログならサラッとページを捲るだけだ。

もともとクルマのカタログはメーカーから有償でディーラーに渡されるものだから、なくせばその分のコストが抑えられる(浮く)。もう少し大きく捉えれば、紙のカタログを作らなければペーパーレスが達成でき、その分の資源の節約にも貢献できる。

大事なカタログは“見る用”と“保管用”を持っていた

大事なカタログは“見る用”と“保管用”を持っていた

だが、だからといって、あっさりと紙のカタログがなくなる事態には、いささか抵抗感があるのも正直なところ。僕の話でいえば、クルマのカタログは、クルマの運転免許をとる遥か前、小学生の頃から集め始めた。新型車が出ると心ときめかせながらディーラーまで自転車を走らせ、カタログを貰いに行った。

さらに自分でクルマを持つようになると、今度は自分で乗った年式のその車種のカタログを必ずとっておくのも基本だ。また皆さんも経験がおありではないかと思うが、クルマに限らず何か欲しいものができると、そのカタログを寝ても覚めても眺め、時にはトイレの中でも寝る間際でも眺め、思いを募らせたはずだ。なおそうしてカタログを眺め倒しているとカタログがボロボロになるから、たとえば大事な車種のカタログは“見る用”と“保管用”の最低2部をもっておくようにした。

ウン十年前の自分の面持ちが、つい昨日のことのように蘇る

ウン十年前の自分の面持ちが、つい昨日のことのように蘇る

思えば僕は人一倍カタログが好きな人間かも知れない。クルマに限らず、カメラでもオーディオでも鉄道模型でも何か気になる、欲しい、買いたいと思う対象ができると、必ずそのカタログを集めた。昔は雑誌の広告の端に“カタログ請求券”なる小片がついていてそれを切り取ってハガキに貼って出したり、あるいはメーカーに直接カタログの請求をしたりすれば郵送してもらえた。そうして集めたカタログの多くを、今も僕は捨てずにもっている。自宅の建て替えで蔵や物置の解体とともに泣く泣く処分した分もあるが、“これは!”という自分にとって大事なカタログは可能な限り残しておくようにしてきた。

今でも古いクルマのカタログや、自分で初めて買った一眼レフカメラのキヤノンF-1のカタログなど、ふと懐かしくなり眺めてみることがあるが、手に取ってページを開くと少しカビ臭かったりするカタログのそのページの写真、文面を同じように眺めていたウン十年前の自分の面持ちが、つい昨日のことのように蘇ってきて、懐かしく思えたり、感傷に浸ったり(!)とさまざまな気持ちを味わう。親の血をひいていて、すべてではないが家電でも本でも何でも身の回りのほぼすべてのモノに入手年月日を書いておく習慣があったから、ふとカタログの裏表紙を見ると端のほうに自分の字で“S48年○月○日”とブルーのボールペンで記入してあったりもする。

自分の思い出、歴史、青春がデリートキーひとつで削除されてしまう

自分の思い出、歴史、青春がデリートキーひとつで削除されてしまう

そういう訳だから、紙のカタログにはひとしおの思い入れがある世代にとって、それがなくなるとなれば、だから由々しき事態という訳だ。自分の思い出、歴史、青春(!?)がデリートキーひとつで削除されてしまう感覚といったらいいか。家内にその話をすると「資料部屋のあのカタログの山がなくなるのなら、スッキリしていいじゃない?」というが、そういう次元の問題ではないのである。

(写真:島崎 七生人)

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